美しい真珠は、自然の恵みによって生まれる尊い宝物。そして、19世紀末に日本がすばらしい技術を開発して以来、世界に誇る養殖真珠の歴史をリードしてきたことは、皆さんもご存じだろうと思います。そこで、真珠について、さまざまな角度から改めて学ぶ企画をスタートします!
教えていただくのは、赤松蔚(あかまつ・しげる)先生。大学時代から(株)ミキモトの真珠研究に関わり、卒業後、国内外の営業、正倉院、平等院の宝物調査などを経験された、国際的な真珠の権威でいらっしゃいます。退職後も真珠一筋に、業界の発展に力を尽くし、「Mr.Pearl」とお呼びしたい偉大なキャリアの持ち主です。
そんな赤松先生が来年、”真珠人生”の集大成として、次世代に伝えたいお話をまとめた本を上梓する予定と聞き、真珠を愛するマダマでは一足早く、エッセンスの部分をわかりやすく、先生にお話しいただくことにしました。聞き手は真珠や宝石が大好きで、昨年からマダマにジョインしたJewel子が務めます。「真珠のことなら、なんでも聞いてね!」と笑顔で話す、気さくなMr.Pearlに真珠のあれこれを教えていただく前に、まずはMr.Pearlが真珠業界に入ったきっかけをお聞きします。
――Mr.Pearlは真珠に関わって、どれくらいになりますか?
ミキモトには1965年の東京水産大学(現 東京海洋大学)の学生時代から関わったから、59年目かな?
――59年!高度成長期時代から真珠業界の中にいらっしゃったんですね。業界に入るきっかけはなんだったんですか?
大学の指導教授に就職先としてミキモト――当時は御木本真珠会社といいましたが――を勧められたんですよ。叔父がかつて養殖場で働いていた縁もあり、行くことにしました。その流れで、卒論のテーマも真珠珠の色素についての調査に決めたところ、ミキモトからバケツ一杯の真珠が送られてきました。これがすべての始まりです。
――バリバリの理系だったんですね。
そうなんですよ。だから、研究者として採用されたと思っていました。それがいつのまにか、国内外の営業にも駆り出され、真珠ビジネスの川上から川下まで知ることになっちゃって……。
――こんなに長く、真珠業界で働くことになると思っていましたか?
いやあ、全然思っていませんでしたよ(笑)。人生とは、本当にわからないものです。戦後78年になりますが、当然、日本の戦後真珠史も同じ長さのストーリーがあります。戦争中、中断された真珠の養殖やビジネスが、戦後に大きく発展したんです。振り返ってみれば、私はその75%の時間を真珠業界の中から見つめてきたことになります。約60年。長いですね。良い時代も困難な時代もあったけれど、未だに真珠に魅せられたまま、おかげさまで忙しい日々を過ごしていられるのは幸せな人生といえますね。
――Mr.Pearlは、文字通りの真珠の生き証人ですね。
そうかもしれませんねぇ。研究から国内外の営業、日本や海外の歴史的な真珠の調査など、真珠にまつわる、さまざまなフェーズに関わった人間は私ぐらいだろうと思います。それには理由があって、英語で真珠について専門的に説明できる日本人が、昔はとても少なかったからです。幸い私は、英語の勉強も好きだったので重宝されたんでしょう。GIA(米国宝石学協会)のシンポジウムで発表したり、国際的な科学誌に論文を寄せたり、数多くの国々で研修や講演を行ったりしました。
――英語が話せても、講演で話したり、論文を書いたりするのは、さらに別の能力が必要ですから、貴重な人材でいらしたんですね。いわゆる”現場”にも、たくさん足を運んで状況を把握しなくてはならないでしょうし。
日本の養殖場でひたすら珠の選別をしたこともありますし、海外を飛び回ったこともあります。今も時々は海外を含めて視察しています。真珠の種類も養殖の方法も、国や環境が違えば異なるんですよ。もちろん、出来も違ってきます。
――日本以外では、どんな国が真珠を養殖しているんですか?
たとえば私は中国、ベトナム、フィリピン、オーストラリア、UAE(アラブ首長国連邦)、バーレーン、タヒチといった国々で真珠養殖や加工の現場を視察、調査しました。それぞれのお国柄が真珠養殖の現場にも出てくるので、とても興味深いんです。最近では特にアブダビの養殖場が面白かったですね。これからの真珠のグローバル展開を考えるうえで、非常に良い勉強になりました。海外での体験も、いつか詳しく話しましょう。何しろ、本当にいろんなことがありましたからね(笑)。
――Mr.Pearlの真珠エピソード、とても楽しみにしています!次回もよろしくお願いいたします。